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一里塚とは──街道に残る江戸の道しるべ
一里塚(いちりづか)とは、街道に沿って一里ごとに築かれた、距離を示すための土の塚をいいます。
旧街道を歩いていると、こんもりとした塚や、それを示す石碑・案内板に出会うことがあります。 多くは、江戸時代に整備された一里塚の跡です。
このサイトは、街道で見かけた一里塚を読み解くための場所として作りました。
まず読み方から
一里塚 … いちりづか
一里 … いちり(距離の単位)
「一里」は、江戸時代の距離の単位です。
現在のメートル法に換算すると、おおよそ3.9km前後とされています (時代・地域によって里の長さには揺れがあり、正確な換算値は資料によって幅があります)。
何のために作られたのか
江戸時代、幕府は主要な街道(五街道など)を整備する中で、 一里ごとに塚を築くよう命じたと伝えられています。
① 旅人が、あとどれくらいの距離を歩いたか分かるようにする
② 駕籠かき・馬借など、距離に応じて料金を決める仕事の目安にする
③ 街道の起点・終点を測る基準にする
起点は江戸日本橋とされることが多いです。 そこから五街道の距離が測られ、一里ごとに塚が置かれていきました。
塚の作り方
基本の形は、街道の両側に土を盛った塚を1対で築くというものです。
□ 街道を挟んで両側に1基ずつ築く(両塚=りょうづか)
□ 塚の上に木を植える
□ 木の種類は榎(えのき)が多いとされる
榎が多い理由について、よく語られる話があります。
「余の木を植えよ」という指示が「榎(えのき)を植えよ」と聞き違えられた、 という逸話です。
面白い話ですが、これは広く語られている逸話であって、 実証された史実として断定できるものではありません。 このサイトでは「そう伝えられている」という形で扱います。
いつからあるのか
江戸幕府が街道整備を進めた時期に、一里塚の制度も整えられたとされています。
大半の一里塚は、江戸時代を通じて維持・管理されてきました。
その後、明治以降の道路整備・鉄道の普及、 さらに自動車社会の到来にともなって、多くの一里塚が失われていきました。
現在まで残っている一里塚は、当時作られた数からするとごく一部です。
現存する一里塚
現存する一里塚の多くは、市区町村の文化財に指定されています。
・塚そのものが残っている例
・塚は失われ、石碑や案内板だけが残る例
・地名(「◯◯一里塚」)だけが残る例
「現存する一里塚が全国にいくつあるか」という総数は、 このサイトでは断定しません。 自治体ごとに指定・調査の状況が違い、横断した公式な総数の出典を確認できていないためです。
街道別に見ると
街道によって、残り方の傾向が違います。
・東海道:整備が早く、記録・石碑が比較的残っている区間が多いとされる
・中山道:山間部を通るため、塚そのものが残っている例がある
・奥州街道・日光街道:都市化の進み方によって残存状況に差がある
同じ「一里塚」でも、街道ごとに歩いてみると印象が変わります。
似たものと見分ける
街道沿いには、一里塚以外の石造物もあります。
| 相手 | 見分けの決め手 |
|---|---|
| 庚申塔 | 信仰の対象(三猿・青面金剛=しょうめんこんごう等)が彫られているか |
| 道標 | 行き先・距離を文字で示しているか |
| 里程標 | 明治以降に新しく設置された、距離を示す標石か |
一里塚は「塚(盛り土)」であることが本来の姿で、 現在は石碑や案内板に置き換わっている場所も多いため、 現地では見分けにくいことがあります。
見に行くなら
遠くへ行く必要はありません。
① 自治体の文化財リスト・郷土資料を見る
② 旧街道・旧道を歩く
③ 案内板・石碑の説明文をよく読む
塚そのものが残っている場所は多くないため、 「石碑や案内板だけ」であっても現地を訪ねる価値はあります。
まとめ
- 一里塚(いちりづか)は街道に一里ごとに築かれた距離の目印
- 一里はおおよそ3.9km前後とされる江戸時代の距離の単位
- 塚には榎(えのき)が植えられることが多いが、由来の逸話は断定できません
- 明治以降の道路整備で多くが失われました
- 現存するものの多くは市区町村の文化財として管理されています
- 街道ごとに残り方の傾向が違い、歩き比べると発見があります
出典・断定しないこと
このページで扱った年号・距離換算・逸話は、公開前に自治体の文化財資料・ 国土交通省の道路関連資料等で個別に裏取りする予定です(現時点はdraft)。
・一里塚制度が整えられた具体的な年号は、公開前に一次資料で確認する
・「一里=約3.9km」の換算値は、資料によって幅があるため出典を明記してから使う
・榎の逸話は、実証された史実として断定しない
・現存基数の総数は書かない(調査主体を併記できないため)